時の経つのは早いもので。
 連休明けから、すでに1週間が経ってしまった・・・

 ようやく、頭も体も仕事モードにもどりつつある・・の?
 (なぜに疑問形・・・?)





 前にも何度か、闘病中の叔母の話題を投稿した
 事があるのだけれども。
 その叔母が今月2日に、6ヶ月の闘病生活を終えました。

 享年56歳でした。



 なにかと忙しい毎日で、なかなかゆっくり思い出に
 浸る時間もないのが現状でありまして。
 というより、なかなか実感が湧かずに今に至ります。


 〈重くて長いので、追記にて。〉






 

 母は三姉妹の長女でして。
 他界した叔母は、母のすぐ下の妹。


 とても物静かで、穏やかな優しい人だった。

 夜も働きに出ていた母の代わりに、私と弟を引き取って
 育ててくれた人なので、叔母と言うより育ての母と言った
 方が正しいのかもしれない。

 住んでた家も隣近所だったし、従兄弟達とも年が近くて
 本当の兄弟姉妹みたいだったから尚更のこと。


 しかも、私と叔母は同じ名前だったりして。(笑)
 そんな偶然もあって、私は叔母が大好きだった。

 うちの主人も子供達も、「ちいちゃいばあちゃん」が
 大好きだった。



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 昨年の9月中頃、孫(従兄弟の子)の保育園の運動会を
 見に行った際に、考えられないほど体が堪えたらしく、
 「歳にはかなわないわねぇ。」と嘆いていたのが最初だった。

 その前から、疲れやすくなってはいたらしいのだけど、
 仕事も忙しく、かなり無理をしていたのだと思う。


 10月入ってから、背中や腰がひどく痛むと言い出した。

 従兄弟(叔母の息子)に勧められて、鍼灸やマッサージ、
 整骨院に通ってはみても、痛みはひどくなる一方で。

 この頃から、尿の色を気にしだした。
 おそらく血尿による変化だったのだろう。
 (先生が言うには、2、3年前からこういう症状はあったはずだと言われた)

 11月初めには、仕事を休んだ事のなかった叔母が、仕事
 すら行けない状態になり、2、3日後には立つのも困難に
 なっていた。

 見てる方も、あまりの叔母の変化に右往左往するばかり。

 いよいよこれは内臓からではないかと、うちの母と一緒に
 近くの内科に駆け込んだが、ここでは手に負えないと、
 市内で一番大きい病院を紹介された。



 そこで下された診断は、「尿管がん」だった。

 すでに肝臓と腰椎及び脊椎に転移しており、手術は不可能
 と言われた。

 それが2008年11月14日だった。


 とりあえず、放射線治療と抗がん剤にかけてみようと、慌ただしく
 入院手続きをし、治療が開始されたのだが、このときすでに、
 付き添っていた母や従兄弟は、

 「手の施しようがなく、今年いっぱいかと思われます。」

 と、担当医から告知を受けていた。

 つまり、これから行う放射線も抗がん剤もたいして意味はなく、
 副作用で苦しむだけならまだしも、抵抗力が落ちて、生命だって
 危ない可能性もある。
 それも踏まえ、緩和ケアを考えてはどうかと促されたらしい。

 そんなことは知らない叔母は、ただただ前向きに、治療に専念
 して、早く退院しなくちゃと笑っていた。
 その意志を汲んで、叔母の息子は
 「副作用のきつさや危険も承知の上です。母が納得いくまで
 治療してやってください。」
 と担当医にお願いしたのだ。


 それから、6ヶ月間。
 叔母は一度も実家に帰ることなく、辛い闘病生活を終えました。


 副作用で、髪も抜け、全身が浮腫んでしまったためか、
 丸々した顔をなでながら「いやぁねぇ。」とクスクス笑っていた
 叔母が忘れられない。

 4月には痛みが極限に達し、モルヒネを大量注入したものの、
 神経障害や幻覚障害が出てしまった。
 4月末には意識が朦朧としはじめ、呼吸困難にたびたび陥り、
 さらには肺炎になってしまった。

 とても苦しそうにしていたのに、最期は、親戚一同に看取られて
 とても穏やかに息を引き取ったのが何よりでした。


 最初は余命3ヶ月もあるかどうかと言われてたのに、
 6ヶ月間、本当によく頑張った。


 ありがとう叔母ちゃん!!
 ただただ感謝です。

 (今でもまだ、病院で待ってそうな気がするんだけどなぁ。)



 (注:尿管ガンとはいえ、これはあくまでも叔母の場合であって、
    初期であったり、転移の有無でも状況は大きく変わります。)